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栄光の歴史

春季千葉県大会優勝 1回
秋季千葉県大会ベスト4 多数
選手権南関東大会準優勝 1回
選手権千葉県大会準優勝 1回


明治期
 野球部の創設は、明治34年5月であって、開校の1ヶ月後、校友会を設立する際の第1番目の支部であった。
 当時東都では、野球はすでにボートとともに、一高、早稲田、慶応、明治学院などで行われていた時代の花形スポーツであったが、まだ全国的には普及せず、第一回の一高三高戦が行われたのが、明治39年であったというから、その5年前、田舎の一中学校で野球部を設立したのは、狩野校長はじめ、先見の士が野球に学生スポーツとしての価値を認めて導入されたものであろう。しかし、元来野球は外来のスポーツであり、歴史は浅く、各校ともに指導者にこと欠き、技術の普及も広く及ばなかったものと思われる。鋸山の険に阻まれた当地はなおさらのことであったのである。

大正期
 大正に入って、避暑客の中に野球に熟達している者(勝海舟の令息もその一人であった)もあって、海岸でキャッチボールなどをして楽しんでいたが、本校生徒も、その妙技に魅せられて、そういう人たちの指導を受けるようになり、だんだん普及し、校庭でも、寄宿舎生を中心にかなり活発に行われるようになった。寄宿舎生対本校生の校内対抗試合の模様などは、大層おもしろく校友会誌に残されている。大正4年の項に記した大成中学との対抗戦もこうした時期に行われたのである。

 大正11年ごろ、南陽舎(東京、小石川)に在寮の本校卒業生、苅込豊氏(中11回卒)、川又務氏(中13回卒)、鈴木浩氏(中15回卒)、(何れも柔道部のOBであり、寄宿舎時代野球の方でも猛者であった。)などが中心となり、野球部の興隆を図り、資金を集めて大正12年4月、野球用具一式を買いそろえ、野球場を整備し、当時としてはすばらしく立派な固定式バックネットを建てた。その全体の輪郭は、高さ7m、横幅は20mほどあり、バックボードは厚さ6cmほどの板を2mの高さに張り上部は金網であった。
 一学期の間は、自己流でバッティングやキャッチボールをし、ルールもよく知らずに練習試合をしたりしていたが、二学期から指導者を招き本格的活動に入るべく9月1日、その発会式を兼ね、柳悦多氏を講師として野球に関する講話をしている最中に起ったのが、かの関東大震災であった。柳氏は一瞬にして不帰の客となり、学校は当分、野球どころではなく、翌年に至るも野球場は材木置場と化し、野球部の復興もすべて御破算となってしまったのである。
 昭和6年、新校舎が竣工するまで、バックネットばかりは空しく残り、その前は専ら、″説法″の集合場所であった。

*″説法″戦前の卒業生には解説を要しないが、最上級生が下級生全員を集合させて座らせ、それを取り囲み、数人の生徒を一人一人呼名して起立させ、説諭し時には鉄拳制裁を加えた。

昭和期(戦前)
 それでも、昭和3年には、浦辺秀夫投手を擁してかなり強力なチームがあり、一年生部員は20名を越えるという盛況で、部の前途は洋々たるものを思わせたが、小野寺校長の教育方針に合わず、県下大会の出場はかなえられなかった。
 それに加え、新校舎建築が始まると、野球場は奪われ、練習場は旧安房高女の校庭を借りたり、250mトラックの内側にダイヤモンドを設けて競技部と同居するという有様であった。そのような逆境にありながら、歴代の部員は情熱に燃え、県下大会出場を志したが、小野寺校長以来の方針が永く受継がれ、遂に戦争期に突入した。
 昭和16、17年ごろは、新井投手を中心に相川、関根などの名手、他に石橋、黒沼、高尾、山口、山下、吉田、小林、高橋などの強力なメンバーをそろえ、千葉遠征を試み、当時県下でもAクラスであった千葉師範、千葉工業などと互角の試合をしていたが、県下大会そのものが、戦争のため、昭和16年以降中止となった。

昭和13年の卒業アルバムより
昭和期(戦後)
 敗戦後の極度の混乱は収まつたものの、このころはまだ政治的経済的に不安定な時代が続いたが、野球部の再建はことのほか早かった。昭和22年県下大会初出場の時は、緒戦で惨敗を喫したものの、その年の秋はすでに中央の名門校と互角に戦えるようになり、昭和23年から26年にかけては、毎年春夏秋の県下三大会に常時出場する実力校の列に入っていた (当時は、春秋は戦績による選抜で、夏大会も予選があり、本大会に出場する学校は限られていた)。
 帽子からストッキングまで純白で統一されたさわやかなユニホーム姿でマナーの良さと気合の入ったキビキビしたプレーをし、その上試合ごとにすさまじいばかりの打棒を振って、県高校球界に次々に新しい旋風を巻き起していったのであった。
 戦前作詞された部歌に″歴史は年を重ぬれど遺恨の数の多くして、臥龍の思ひ幾春秋、今し飛躍の時期至る 新興の意気昇天の かの旭日に似たるかな″という一節があるが、まさにこの時代はこの歌詞の通りであったのである。
 さて、ここまでに至った要因をいくつか挙げてみよう。
 まず第一には、いうまでもなく敗戦による時代の変化である。特に本校では、戦前の小野寺校長時代以来の野球部抑圧政策からの解放が挙げられる。戦前からの先輩たちが隠忍していたエネルギーがここに一気に開花した観があった。
  また、その時代の変化に伴って義務教育となった新制中学が、こぞって野球に力を入れるようになったことも挙げられる。当時、″63制 野球ばかりが 強くなり″という川柳があり、それは野球に比して教育の内容が著しく低下したことを皮肉ったものであったが、事実郡内各中学校の野球熱は盛んであった。特に地元の北条中学(後に館山二中) は法政大学から主将の小林、関根(後の大洋監督)芳村など当時六大学で有数の名選手を招き、その指導を仰ぐなど、異常な熱気であった。他にも保田中、岩井中、房南中、那古中、館山中(後に館山一中)などが続き、郡市中学大会にも活気がみなぎっていた。
 本校も前記法政大学選手の指導を受け、中央の野球技術の導入がレベル向上に大いに役立ったのである。
 また部の顧問には、県内でも名部長の聞えの高かった川口部長を筆頭に、東大時代野球部の選手であった沢田監督(後に千葉高校長、全国高野連副会長)、本校戦前の苦難時代選手であり、前記部歌の作詞者でもあって部の興隆に異常な執念を持つ柳コーチがいて激しい練習に明け暮れていたのである。
 さて、その部の興隆には障害がなかった訳ではない。
 その第一は、部の発展の割りに部費は極めて乏しく、(昭和26年度の部費は4万6千円であった。)ボールやバットのような消耗品すら満足に買えず、ボールは糸がすり切れても、部員が手分けして丹念に何度も繰り返し縫い合せて使用していた。ユニホーム、スパイク、グローブ等は全て自己負担であったが、遠征費等まで負担させるには限度もあり、大会に参加して勝つには勝っても、遠征費に不安があり、痛しかゆしというところであった。八幡の祭礼には野球部の売店を出し、大会のたびに、郡市内各所を巡って好意を寄せる方々から寄付を仰ぐ有様で、経理を担当する川口部長の苦労は並大抵ではなかった。運動具屋からの借金がかさみ、顧問はその店先を避けて通ることもしばしばであった。野球部に援助を惜しまない多くの方々の中でも、特に大谷義辰氏、五木田保氏(高1回卒)などの変らぬ援助がなければいかんともしがたい時期が続いた。
 その上、グランドは狭く、250mトラックの内側に設けられたダイヤモンドに土を入れて整備する費用すらも、学校には支出する余裕がなかったのである。そのため守備練習は思うに任せず、陸上競技のトラックの一部を借りて個人個人に猛ノックを浴せるのが関の山で、どうしても打力、投手力に頼る練習となるのは止むをえぬことであったのである。

さて、昭和23年以降の戦績を簡単に記しておこう。

昭和23年7月、全国高等学校野球大会千葉県予選
   出場校 予選を勝抜いた16校
    一回戦  本校 10A-0 大多喜高
    準々決勝 本校 3-2 市川工
    準決勝  本校 0-1 成田高
    (この年、 成田高甲子園出場)

昭和24年
   7月、全国高等学校野球大会千葉県予選(出場校 地区予選により16校選出)
    シード校、安房、成東、成田、千葉高
    本校は一回戦で関東高に12A-1で圧勝したが、
    二回戦に東葛高に惜敗。

昭和25年
   シーズン早々、第4回日本学生野球協会結成記念大会(関東大会)が千葉市で開催されたが、
   その千葉県代表決定戦が選抜四校で行われ、本校は東葛高を8A-2、成東高を6-5で破り、
   千葉県代表として本大会に出場した。本大会では足利工高に7-0で敗れた。

昭和25年7月
 全国高等学校野球大会千葉県予選(出場校 地区予選により32校選出)
 シード校 千葉商、 成田高、 安房高、 千葉高
 シード四校順当に勝ち、南関東大会出場権を得る。
 本校は、大多喜を17-0コールド、船橋を6-3、銚商を2-0で破り準決勝進出。
 8月1、2、3日の予定にて南関東大会が千葉県営球場にて開催される。
 試合は1日、2日は予定通り行われたが、2日夜から降りだした雨は容易に止まず、止むをえず牧野屋旅館に足止めされることになったが、その長雨はいつ上るとの見通しが立たず、ついに5日、一たん帰郷し、天候の回復した7日に急きよ決勝戦を行うことになった。
 室内練習場を持つ千葉高と遠征軍の本校との利不利は歴然としていて、甲子園を目前にして7-1という大差で敗れ去ったのである。

昭和25年秋
 新チームになって、市川国府台球場で選抜8校による新人大会が開催され、本校は一回戦で夏に引続き銚子商を5-0のスコアで撃破、準決勝では好投手穴沢を持つ成田高と対戦、千葉県球史に残る延長21回の激闘の末、敗れたものの実力は高く評価された。

昭和26年
 3月、この年甲子園選抜大会に出場が決まって、館山で練習をしていた明治高校に練習試合を挑み、17A-1の大差で一蹴、その強打線はまさに無敵の勢いがあった。
 4月第5回日本学生野球協会結成大会千葉県予選では、宿敵成田、東葛を破って、昨年に引続き優勝、再び関東大会に駒を進めた。本大会では、地元足利高に14-0で圧勝したが、二回戦で神奈川商工(後の日本ハム大沢監督が主将であった)に7-3で屈した。

 昭和26年5月、春季関東高校選抜野球大会千葉県予選で出場8校のトーナメントを勝ち抜き県下大会に初優勝を飾った。

5月12日より14日まで甲府市で開催された関東大会に、本校が県代表として出場したが、浦和高に敗れた。

7月、恒例の全国高等学校千葉県予選では、春季大会優勝の実績によって、第一シードとなり優勝侯補の筆頭に挙げられ、部員一同も必勝を期して出場した。しかし、準々決勝で、好投手北川(後に国鉄、巨人などで活躍した)を持つ、伏兵佐原高に10-0という思わぬ大敗を喫し、甲子園の夢はついに水泡に帰したのである。

昭和後期
昭和51年 全国高校野球選手権千葉県大会

1回戦       不戦勝
2回戦
安房
3-1
千葉南
3回戦
安房
4-2
市原
4回戦
安房
8-1
5回戦
安房
11-1
千葉敬愛
準決勝
安房
7-5
君商(延長12回)
決勝
安房
0-15
銚子商

決勝戦には即席応援団ができ、9台のバスを連ねて応援に行ったが、エース石井投手が肩をいため、打線も主軸を欠き、力尽きて大敗を喫した。

昭和57年以降のデータ

昭和57年

 
58年
 
59年
秋季県大会ベスト8
60年
秋季県大会ベスト4
61年
 
62年
秋季県大会ベスト16
63年
 
平成元年
春季県大会ベスト16
選手権千葉大会ベスト16
内房地区大会、南部地区大会優勝
2年
春季県大会ベスト16  選手権千葉大会ベスト16にとどまる
7月、部OBにより野球部用のバス運用される
3年
選手権千葉大会3回戦
4年
選手権千葉大会3回戦
5年
選手権千葉大会3回戦
6年
春季県大会ベスト32
選手権千葉大会4回戦(ベスト32)
7年
内房地区大会準優勝、南部地区大会準優勝
選手権千葉大会4回戦(ベスト32)
秋季県大会ベスト16
8年
選手権千葉大会ベスト16
9年
春季県大会ベスト32
選手権千葉大会3回戦
10年
春季県大会ベスト32
選手権東千葉大会2回戦
秋季県大会ベスト32
11年
春季県大会ベスト4(48年ぶり)
選手権千葉大会ベスト8(23年ぶり)
秋季県大会ベスト4(14年ぶり)
12年
春季県大会ベスト8
南部地区野球大会準優勝
選手権千葉大会ベスト16
秋季県大会出場