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初代校長岡田先生着任
大正十年三月五日 初代校長着任


創立に至るまで

 大正七年頃の山武郡は約二万二千四百ヘクタールの耕地があり、地域住民の七十パーセントは農業、または漁業に従事していた。

 しかし、農業人を育成する学校がなく、その設立を待望する気運が高まりつつあった。たまたま山武郡長に着任した大橋高四郎氏は農業教育に熱心な方で、機会あるごとに農学校設立の働きかけを行った結果、県会議員板倉幸進美氏、郡会議員石野操一郎氏、大網町長安藤定吉氏らがその意を受けて学校設置に向けて精力的に取り組んだ。以後、地域ならびに関係者の支援を得て、大正九年十二月一日をもって文部大臣より郡立甲種農学校として設置が認可され、ここに郡立山武農学校が誕生したのである。


 大正十年三月五日、初代校長として農学博士岡田鴻三郎先生が着任された。早速事務所を東金郡役所に置いて、施設計画、経営、教科書採択、生徒の募集計画等、不眠不休で校務に尽痒し、ようやく三月三十日、三十一日の両日、大網小学校を会場に第一回入学試験実施にこぎつけることができた。


入学式・校舎落成

 大正十年四月五日、新入生百四十九人、校長以下教員七名の構成で入学式が挙行された。まだ新校舎は落成に至らず、大網小学校を借りてのスタートであった。式は片岡郡視学から経過報告、ついで岡田校長から本校教育方針の諭告、山口郡長の告辞、内海教諭から生徒心得について訓諭があって終了した。

校舎落成

 大正十年六月七日、待望の新校舎が落成したので、お祓い式を行い、翌八日移転したが、環境整備は道遠しの状態である。そうしたなかで大正十一年五月、町の有志によって稲荷神杜境内にあった松が移植された。この松に岡田校長は「反省松」と命名し、「あさなあさな恵の露をふりかけよ下ゆく人のかえりみるまで」の歌を詠んで生徒を励まされた。

第一回卒業式

 大正十二年三月二十四日、千葉県知事以下名士多数の臨席のもとに、第一回の卒業式を挙行し、同時に開校式を行った。この日晴れて三十四名の卒業生を世に送り出した。
 大正十二年に校歌が誕生した。初代岡田校長が作詞されたもので、郷土が生んだ先達の功績を織り込み、山武健児の進むべき道を力強く示している。以来、本校に学ぶ者の心の指針として歌い継がれて現在に至る。なお歌詞の前半を四分の四拍子で歌うのが校歌、歌詞全部を四分の二拍子で歌うと行進曲となる。





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