栄光の歴史 その1
明治35年9月創部、当時は生徒の有志に放課後1時間の練習を行わせた。 37年初めて寒稽古。39年技術の等級を定め、1~6級とし、4月から全校生徒を2分し、放課後一時間、医師の診断書のある者以外は柔剣道を交互に練習させる制度とした。部長教師のほかに学級主任も臨席して出欠を調査した。 42年からは放課後の剣柔道を準正課として扱い、上級生徒で技術優秀なものを助手に任命した。 |
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公式の県下中等学校武道大会が開かれたのは、大正8年度であった。たまたま、大正8年に安房北条駅まで鉄道が開通したので、安房中学は第1回大会から勇躍参加している。第1回大会には錚々たる猛者連が出場したが、優勝はできなかった。 |
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戦後
本校剣道部は、戦前の旧制中学時代に全国中等学校剣道大会に優勝するなど、数多くの戦績を残してきた。 |
昭和44年度 本年度のハイライト、剣道部宿願の日本一に 昨年六月の関東高校剣道大会、本年五月の県下高校剣道大会に、それぞれ安房高が地元で見事な優勝を遂げたが、それもこれもこの本年の全国大会に照準を合せた努力の積み重ねであった。地元館山市での全国大会に勝たずして、何を以てか郷党の父兄・校友にまみえるを得んやである。いざゆけ若者、安房高剣士!。 戦いは八月八日の予選リーグから幕が切って落された。第一戦は富山県代表富山商高を四対一、続いて山口県立奈古高校を四対一で破り、決勝トーナメントに進出、強豪早稲田実業を三対二で破り、 続いて宿敵習志野高校を五対○のスコアーで撃破し、意気正に軒昂たるものがあった。次の九日は女子団体戦と男女個人戦の各準々決勝までが行われ、いよいよ10日の大詰めを迎えたのであった。 準決勝は薩南の雄鹿児島商高と対戦し、三対二で破り、いよいよ決勝戦に四国の強豪琴平高校と相まみえた。先鋒は惜しくも敗れて手に汗を握ったが、続く次鋒、中堅、副将と連勝し、大将戦を待たずして優勝を決めたのである。監督の佐藤和憲教諭は「私は四月に着任したばかりだが、安房高には先輩達が築き上げた立派な伝統があり、今度の優勝はその伝統が花開いたともいえよう。とにかく選手達は精いっぱいよく戦ってくれた。」と述懐している。大将の富永泰夫選手は「地元なので伸び伸びと戦え、第一日に強敵早稲田実業を破って自信がつき、みんなが持てる力以上のものが出せた。地元での全国優勝は夢のようです。」と喜びを語った。 かくて、監督、選手一同は大優勝旗と優勝杯を高く掲げながら、学校長、本間市長、西村市議会議長、田中市体育協会会長その他安房高剣道部関係者と共にオープンカーで市中をパレードし、沿道に詰めかけた地元の人達の盛んな拍手と歓呼に迎えられたのであった。 そして九月八日、友納武人知事から表彰され、知事室で優勝記念トロフィーを贈られた。 |
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昭和48年 国体での活躍
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昭和55年 剣道部女子、インターハイ準優勝
八月初め高知県で開催された昭和55年度全国高校総体において、本校剣道部女子団体チームが準優勝を遂げた。剣道部女子団体チームは、前年既にインターハイ出場を果していたが、その時のメンバーを3名残したこの年のチームは、春の県総体こそ3位に終ったものの、インターハイ県予選に見事優勝し、インターハイ2年連続出場を成しとげた。そして川名登喜男・山本善彦両顧問の指導のもと、川名恵・笹本恵津子・川上かおり・上松裕美・忍足すみえのメンバーで戦い、決勝戦では大分の安岐高校に敗れたものの準優勝を勝ち取った。 |
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平成6年 剣道部女子団体 14年ぶりインターハイ出場 |