母校を語る「卒業生の思い出」



 四十年前の母校の様子の教えを今に思う
 秋庭一衛(昭和三十六年度卒)

 四十年前の母校
 私が入学した年は、創立四十周年に当たる前年の昭和三十四年でした。当時の校舎は東金線沿線にあるグランドに面した南側に、創立当時建設されたという校舎と、その後増築した校舎、体育館兼講堂を含め四棟の木造平家建てで、大層老朽化した校舎でした。でも、私が通った小学校はもっと古く別段気にもしてないかったが、他の高校からすればかなりの程度であったことを、友達の話から窺うことができました。
 入学早々、四十周年記念事業の体育館建設(今の武道館あたり)の為に、裏山の岩をツルハシやスコップを使って、リヤカーで運ぶ埋め立て作業を実習としてやった。入学する前、このような事をやることは、想像もしていませんでしたが、この校舎も先輩たちがそのようにやって建設されたことを知り、ただそれが運命と思って、黙々とやっていたことを懐かしく思います。

 実習
 教室の中の授業と違って、実習の時間になると途端に元気の出る友達もいた。前述の埋め立て実習・農場実習・年間当番制でやる畜産当番・季節によって行われた養蚕当番と製茶当番でした。
農場実習は主に、週一回くらい中正農場での実習でした。二時限くらい授業してから作業服に着替え弁当を持って、一時間くらいで山道を自転車や徒歩で行けたが、道草をくいながら通った。後から戸村先生が自転車で追いこして行くと、そろそろ急がなければならない気持ちになった。
 中正農場に着くと昼食をとってから実習にはいつた。遅めに農場に着くと「おまえたち弁当食べてきたのか!」と、軍隊調のキリッとした口調で戸村先生に声をかけられ、ギクッとしたことを忘れられない。「…どうせ農場の寒い所で食べるのなら、途中の日だまりの暖かい所で食べた方が美味しいに決まっている。」そんな調子で中正農場についた時だった。それにしても千里眼のような戸村先生、決して厳しく叱るようなことはなかったが、悪いことはできないと思ったのは、私一人ではなかったようだ。
 中正農場での実習の一番の思い出は、桃の苗木を植えたことでした。一・八メートル角、深さ一メートルの植え穴を掘り、山から枯れ木や草を集め、粗大有機物として、土と交互に埋め戻した上に桃苗(倉片早生)を植えた。「おまえたちが卒業して数年後には、茶わんぐらいな大きな桃が取れる。」と言われた戸村先生のお言葉を忘れないが、今ではその桃の木が農場整備のために無くなっていた。
 中正農場は山林に囲まれた台地にあった。今の牧草畑には、当時数十年くらいの杉林が有り、ある日この山に案内されて戸村先生が、「これが理想的な森林である…」と、言われた。地表には苔がジュウタンのように一面に生え通直完満の杉の立木。上を見上げれば木漏れ日が眩しかった。
 高畦の苗床には、取り蒔きして一年立つてやっと五センチぐらいの杉の苗が、敷藁の間から芽を出していた。これを移植したりして、三年たってやっと山出し苗になる。
 山武地方は全国的に知られている、山武杉の発祥地である。実生苗と違って挿し木により三年で山出し苗ができ、成育もよく、このころ爆発的な人気だったようだ。中正農場で山武杉の苗が生産された記憶はありませんでしたが、農場へ通う途中、畑の縁に植えられた五・六年生の山武杉があった。この中に真っ赤にかれた木が二・三本あり、これを赤枯れ病と言う病気であることを戸村先生から教わった。今にして考えれば、元々乾燥地帯に適さない杉の木を畑の縁に植え、自然に逆らった林業のあり方に警鐘をならしているかのようでした。
 養蚕当番は、蚕具を学校の前の池で洗うことから始まった。更に、噴霧器でホルマリン消毒するのだが、目が痛くなり長くやれず交代で
やった。
 校舎の裏の養蚕室は、昔の農家の家の中のようだった。南面の廊下に二・三十畳くらいの室が三・四部屋、真ん中には囲炉裏があった。泊り当番の時には給桑作業など夜八時ころまでやった。なかなか寝つかれず、朝五時になると、掛川先生の「おーい起きろー」と言う声で一斉に作業にかかった。食事の支度は、あまり先生の細かな指導はなく、生徒の中には物知りがいて、それに従ってなんとかやった。飯炊きは、四升炊きの鉄釜にへっつい(かまど)、このころまでの農家であれば、どこの家でもあったもので、水加減は手のくるぶしが潜る程度。…いや「水加減は一割増し」との先生のご指導があったような…?。とにかくこのことは、生徒主導でやったように記憶している。
 しかし、この養蚕実習も私達が最後となった…。蒲田農場の桑の根を堀上げ、それを伏せ焼きにしていた掛川先生の後ろ姿を、今でも忘れられない。

 授業
 農業科の授業は、作物・野莱・畜産・林業・作物保護・農業工学(土木、機械など)・食品加工・農業経営などと記憶している。普通教科でも、化学は特に土壌化学に重点が置かれたようだ。要するに、これらの授業をマスターすれば、凡ゆる産業に通じることであるようでした。

 まとめ
 昔は、家畜を飼いながら作物を作る農家は一般的だった。つまり農業は、自給白足が原則であり、その為に、プラスチック製品の無い時代の生活用品や農作業に使う、篭や笊の作り方。漬け物の漬け方や味噌・醤油の作り方。凡ゆる作物や家畜の育てかたを、農業高校でなければ学べない、多種多様なことを学んだ。
 しかし私達が学んだ時代を境に、時代は大きく変わろうとしていました…。私達が一年生の時は、トイレのくみ取りは実習で、肥桶にくみ取り、肥溜めに運んだ。それを下肥として大切に使っていた。二年生になると、バキュムカーが来てくみ取るようになった。また、水田の耕起は横一列に並んで万能で耕した。翌年になると動力耕転機で耕すようになった。そして、私達が卒業する三十六年には、はじめての農業基本法が制定された。それから、三十八年後に新農業基本法が制定されるようになった。
 新農業基本法の大きな違いは、何と言っても、『農村の多様性』がクローズアップされたことである。今までの経済重視の農業政策に、軌道修正した型であった…。「時代は繰り返す」と言うことばがあるが、プラスチック製品や化学物質が氾濫し、その問題が重要視される今日、四十年前の母校の教えのなかに、今に役立つことが多々あるように思う。



 創立八十周年によせて
 倉並郁夫(昭和三十二年度卒)

 創立八十周年を心よりお祝い申し上げます。私は昭和三十二年度の卒業です。現在は社会人として、又会社を営んでいますが、忙しさに流され、自分自身を、見つめる時間が少なく、初心を忘れがちであります。
 高校の三年間を今、振り返って見て、全てが本当に大切な事だったとつくづく痛感して居ります。
 私は農産製造科に入学、自宅から自転車で約三十分、帰り坂道を、雨の日や寒い日も休まず三年の月日を過ごす事が出来たのも、学校が大変楽しく、私の性格に合っていたからだと思います。
 現在の仕事が在学時代に学び、経験した事柄が生かされて、私の足跡に本当に意義があったと思っています。
 今の山武農高は私達の時代より、大変な発展をたどりました。新学科の増設、教育内容と環境の充実、「即産業界に活躍出来る教育」と目をみはるばかりであります。これも先生方をはじめ卒業生在校生が地域社会と連帯感を持ちながら、献身的な努力の賜物と、私は誇りに思い、人生の自信になっています。
 今後も変革の厳しい現実の社会に対応出来、又創立八十周年の母校の輝かしい伝統の精神を、受継ぐ教育が行われますように望んでいます。



 母校の思い出
 古川道子(昭和五十九年度卒)

 山武農業高等学校、生活科で学んだ三年間は、沢山の出来事があり、その中で色々なことを考えさせてくれた三年間でもあります。
 一年生の時から陸上部に入部し、考えていたよりも試合の回数は多く、授業のノートは、友達がみせてくれたり、レポート用紙にまとめておいてくれたりと、クラスの友達や担任の先生方に温かく見守ってもらいました。その中でも、いちばん困ったのは実技のもので、被服では洋服を縫ったり、ゆかたを縫ったりと、一時間・二時間違うと、かなりクラスの友達とは差がついてしまいました。教科の先生は、一つ一つ丁寧に教えてくれ、提出日にまにあうようにしてくれたりと、陸上部で女子リレーとして南関東大会に出場したという事で、功労賞という賞をもらえた影には、沢山の友達・先生方が支えてくれたからこそだと思います。
 陸上は、小学校の頃からやってはいましたが、本格的に始めたのは中学の時でした。それでも練習は、ハードではありましたが楽しんでやっていたので私には陸上しかないと思い、なにもためらわず高校でも陸上部に入部したのですが、考えていたよりも、かなりきびしい練習でした。体が壊れてしまうのではないかと思うほど、立つことも辛く、もう走りたくないと泣いて走っていた時もありました。そのうちに、学校に行くのは楽しいのだが、部活にでるのは辛いと思うようになり、精神的にもかなり辛いものがありました。「もう、走りたくない!」という気持ちがいっぱいでした。でも、今思うと、あの時辛い思いをのりこえ、走る事をやめなかったから、私は今の仕事を続けられているのではないかと思う事があります。私は今、幼稚園教諭をしています。人間関係・保護者との信頼関係・子供達同士のトラブル、色々考えさせられる事があります。生命をうけてまだ三年の三才児から五才児までの、とても大事な時期を保育させてもらえる事は、本当にうれしい事です。大きな壁にぶつかると、高校時代の事を思い出し、「よーし、頑張ってみよう!」と私の力になる大切な思い出でもあります。
 そして、今のわが家のたのもしい大黒柱の主人も山武農で一緒に学んだ、生徒のひとりでもあります。同学年の食品工業科の主人は、家ではいちばん料理が上手で、子供達からは、「お父さんの方がおいしい!!」と、言われています。時々、高校時代の話で盛りあがる事もあり、話題の中のひとつでもあります。私達が出会えたのも、高校の親友のおかげなので、あらためて、大事な大事な母校なのだと思います。
 これからも、多くの面において、山武農が大きく飛躍していくことを願います。



 山武農高で過ごした三年間
 吉田稔(昭和六十一年度卒業)

 在学時代の思い出を語る前に簡単に自己紹介をする。S五十八年四月に、山武農高の食品工業科に希望と不安を握りしめ入学した。電車で毎日、片道一時間揺られ通学した。朝起きるのが、大変辛かったのは今でも覚えている。「確か、目覚まし時計は二個有った様な気がする。」クラブ活動もこれといって、一生懸命行っていたわけでは無いが、生物部に籍を置いていた。いま思えば、何か身になる活動をもっとやっておけば良かったと、悔いだけが残る。「後悔先に立たず」とはこう言う事をいうのだなと、痛感する次第だ。そしてS六十一年に卒業した。現在は食品製造業に従事している。分かりやすく言えばケーキ屋に勤めている。卒業してからずっと同じ会杜だ。十年を過ぎたころから愛社精神生と言うものが芽生えはじめてきたみたいだ。
 さて在学時代の思い出と言われて、何から書けばいいのか分からないが、白分なりに三年問を思い出すと、色々な顔が出てきた。親友、悪友、恩師、そして校舎、実習棟、農場も顔の一つだろう。母校ならではの実習の授業も忘れることは出来ない。入学草々、蒲田農場でお茶の葉の収穫。右も左も分からない自分たちに見たこともない機械や道具を持たされ不安に駆られながら機械や道具に振り回されていたのは忘れられない。収穫した葉を学校に持ちかえり製茶の授業、お茶の出来るまえでの一から十迄たたき込まれた(教えて頂いた)今の職業柄素材の事を理解した上で商品を作りだすということは、大変役に立っている。今になって、今だからこそ分かる事が沢山ある。母校の偉大さを改めて噛みしめる次第だ。
 他にも色々な、体験学習が有った。春には苺狩りとジャム作り、竹の子掘りと竹の子の水煮、夏の暑いときの天地返し、栗の甘露煮、スモークチキンの作成、数え始めたらきりがない位沢山あった。農業高校でしか学べないことを沢山教えて頂いた。大変感謝している。
 次に思い出されるのは、宮谷祭(文化祭)だ。日頃授業で学んだ事を発表する場でもあった。農作物の展示等、販売したり、加工、販売ははっきり覚えている。又、クラブ活動の展示等、色々な事があった。授業が終わってから出品用の商品を作ったり、掲示物を書いたりと慌しい日々を送った気がする。卒業アルバムにも、その一場面が写っているが、十数年が過ぎているとは思えないほど、鮮明に覚えている。一年生の時は水羊羹、二年生の時は缶詰、三年生の時はスモークチキンを作り出品した。いま作ればたいしたことないかもしれないが、その時は大変苦労した。だからこそ、今でも記憶に残っているのかもしれない。
 他にも沢山の思い出がある。色々な行事も年問を通して育った。一年生の時に、東金青年の家での研修、まだ名前すら覚えていないクラスメイトと同じ釜の飯を食べた事、二年生の時、飯綱高原でのキャンプ自分たちで作った食事の不味さと言ったら天下一、母の味が懐かしくなった一時だった。三年生の時、奈良、京都への修学旅行と色々ある。スポーツ大会に運動会、水泳大会にマラソン大会、楽しかったこと、辛かったこと、毎日がアルバムの一ぺージの様だった。
 学校生活が、楽しかったのも恩師の力が有ったからこその事だと思う。渡辺先生、生徒の間ではカッペと呼ばれていた、藤井先生、生徒の問では善太郎と呼ばれていた。二人のおかげだと思う。又、掛川先生の存在も忘れてはいけない。一口に恩師と言っても語りきれないが、私白身そして生徒全員に携わった人全てが恩師だった様に思える。もし自分が山武農校に行っていなければ今の白分は存在していないかも知れない。人、物全てを大切にすることを学んだのも高校に通った三年間の問だった様に思える。そしてこれからも母校で学んだ事は忘れることは無いだろう。
 最後に初代校長先生岡田先生の反省松の歌、「朝なあさな恵みの露をふりかけよ下行く人の省みるまで」を改めて考える次第です。これからの人生、家族にも、母校で学んだ事を教えながら暮らしていきます。八十年と言う歴史のなかで学んだ事は忘れることは無いでしょう。





 高校生活の思い出
 松土英幸(旧姓今関)
 (昭和六十一年度卒業)

 「食品工業とは、(1)いつ、どこで食べてもおいしく、(2)いつ、どこで食べても同じ味のものを、(3)安全で衛生的に生産する事」と始めの授業で学んだ。最初は何が何の事だか、さっぱり理解できずに、ただ机の上で教科書とにらめっこをした。しかし、茶つみから始まり、四季折々の季節感を感じながらの実習を体験していくうちに、徐々に、実感がわいてきた。
貴校に入学したきっかけは、昨年の全国高校駅伝にも出場した様に、長距離ランナーの名門校だったからだ。中学生時代、そこそこ中堅のレベルだった私は、井の中の蛙と、多少思い込みの激しい性格も手伝って、絶対速くなる、強くなれると思い、日々のキツイ練習をこなした。しかし、私の記録は伸び悩み、後輩にも置いていかれる始末だった。二年生の二学期に、体調不良の為、志半ばで退部した。ものすごい挫折感と孤独感が私を襲い、一気に目標が無くなってしまった。また、このままでいいのか、何をすればいいのか、自分を自分で問いだす自分がいた。
 そんな頃、生徒会という今まで全く考えていなかった組織と出会う。級長をしていた私は、秋の学校祭の事をテーマにおいた会合に出席し、色々と討論をしていくうちに、その組織の中で、違う自分を試すいいチャンスとしてとらえ、生徒会長に立候補し、後に会長として、微力ではあったが、周りのスタッフ、各顧問の先生方の力添えで、任期まで充実した活動をした。
 そんな中、二つ、今の私に財産が生まれる。一つ目は、生徒会の役員で構成された、千葉県の育成会があり、夏休みを利用して、東南アジア歴訪の研修旅行が開催された。一般のツアーとは異なり、現地の名産、風土、工芸等、訪問した各国の生徒との交流をするのが目的だった。香港、タイ、マレーシア、シンガポールの四カ国を二週間で巡った。現在では先進国入りしている国々も、当時は発展途上の国々だった。貧富の差を目の前にし、衛生状態も決して良いとは言えない中で暮らす人々の前に、私達の生活と比較し、日本という国の良さ、自分達の甘えを胸に刻み、帰国の途に着く。各国の青少年の目の輝きに、自分達がどう写ったのだろうか、全く違う環境だが、彼らの笑顔は未だに忘れる事はない。シンガポールを訪れた際、友人になったチャン君とは今でもエアメールを欠く事は無く、家族交流を先日行えた事は、非常に素晴らしい事と思う。また、同行したグループの面々も、今だくされ縁で交流があり、別々の学校、地区の中で、県内どの方面に行っても話題に事欠かない。そんな友人ができた事が、最高の贈り物だろう。
 二つ目は、県農業クラブでの研究発表会。当時、藤江先生の研究室で、東南アジアの発酵食品『テンペ』(日本でいう納豆)の研究をして、成果の発表の場で、その目新しさに関心を集めた。また、農業クラブでの活動においても、多くの友人を得て、今でも交流ができていることは非常にうれしいことだと思う。また、一つのテーマを追求し、興味を持ち、試行錯誤する事、物事の見方、考え方を、研究室で一年間体験でき、以後進学した大学生活の各種実験、実習、卒業論文等の下地を作る事ができた。
 先にも記述したが、食品工業の基礎を実体験し、学んだ事は大学に進学した際にも大いに役立ち、食品衛生管理者等、数々の資格を取得し、現在、昭和炭酸株式会杜、横浜営業所において、食品の鮮度保持物流における品質管理を主に、日々客先での対応に追われている。
 一例として、某大手の外食産業のS杜をあげるとする。以前は常温食品と冷凍食品の二品目の材料を使用していた。ところが、店舗の調理方法をセントラルキッチン方式にすることで、チルド食材の物流がテーマとなり、常温、冷凍、チルドの三つの温度帯を、効率良く配送するシステムを提案し、現在ではそのシステムが、物流費の削減、メニューへの対応、より良い味覚という点で、なくてはならないと言われる程、ユーザー二ーズヘのエンジニアまで含めて対応している。構想二年実地試験一年という月日を費やし、目標を定めてセールスしたのが、良い結果として表れた一例だ。私の娘も、「パパ、おいちーね。」と、食事をする笑顔を見ると、やっていて良かったと肌で感じる。
 いつ、どの店で食べても同じ味。しかも、安全で衛生的。一つの仕事をやって、初めて理解した気がする。今後は、HACCP、無農薬野菜、遺伝子組換え食品と、目ざましい変化の兆しが見える食品業界。
日々が勉強の毎日で、その道のプロとして、はずかしくない知識と経験をしたいと思う。 私の会社は、高圧ガス製造メーカーとして、社会に貢献すべく販売活動を行っている。私の仕事の柱として、先の食品業界と、もう一つが半導体関連の特殊ガス及び設備の設計・販売である。後者の方は、入社後ユーザーから逆に知識を習得した。当社の中でも、半導体の事は「松土に聞けばいい」と言われるくらい勉強した。教訓として、”一事が万事”というように、一つの事に精通する事。疑問を持つ事。何でも話せる人付き合いが出来る事。最近、社会人になって、心がけている事である。
 そんな基礎となる考え方を教えてくれた三年間だったのかな、と過ぎてしまえば、あっという間の時間ではあったが、良い時間を過ごせたと思う。担任だった吉野先生、菅野先生はじめ、進路指導をして下さった藤江先生浅野先牛他、色々な面でお世話になった先生方、スタッフのみなさまに謝意を表わすと共に、貴校の発展と、みなさまのご健闘を期して、乱筆乱文で申し訳ありませんが、私の高校時代の思い出話を終わりたいと思う。そして、また学校祭等で母校を訪問する日を楽しみにしているので、その際は、よろしく願いたく思う。





 母校での体験
 森重勝(昭和六十二年度卒)

 我らが母校、山武農業高等学校が創立八十周年を迎えるという。八十年と言えば私の祖父母とほぼ同じ年齢だ。関東大震災のこと、太平洋戦争での食糧難や混乱、戦後の復興と東京オリンピック、オイルショックなど、その口からは様々な昔話を聞くことができる。そして私が記憶にとどめる事柄も、バイオテクノロジーの発展、バブル景気の膨張と崩壊、パソコンや携帯電話など情報ツールの発達・普及と様々で、八十年の間に、世の中はめまぐるしく変化してきた。こうした時代の流れの中で、農業を機軸としその時々の世情に対応した職業人を輩出してきた山武農業高校の存在は意義深いものであり、そうした環境の中で過ごすことのできた私の高等学校生活も、すばらしい経験だったといえる。
 私は昭和六十年に園芸科に入学した。当時は、農業科・園芸科・食品工業科・生活科の四学科、各ニクラスであった。それぞれの学科では、特色あるカリキュラムが組まれていたが、農業科・園芸科の特色の一つは、二年次の宿泊実習であったろうと思う。宿泊実習は、八〜十人で一つの班を構成し、中正農場の宿泊棟に寝泊まりをする。夕方から翌朝にかけて、家畜の世話や園芸施設の管理、夜の見廻りをし、昼問は校舎で授業をうける、合宿のようなものだ。一回の宿泊が三から五日、これを農業科・園芸科の四クラスで持ちまわり、一年間で、一人がおよそ二十日くらい宿泊した。
 農業高校に農場があるのは当たり前のことで、そこに家畜がいるのも不思議なことではない。動物は餌やりなど四六時中面倒を看る必要がある。とはいいながら、高校生が男ばかりで寝泊まりし、炊事・洗濯を行い、家畜の給餌や除糞などをするのは、決して楽しいものではない。宿泊生(宿泊を実際にしている時の生徒)と言えば、他の級友などから冷やかされる対象(明日は我が身なのであるが・・)であったし、クリスマスや大晦日から元日にかけて宿泊をするものは、不運としか言いようがなかった。特に夏期の五時、冬期の六時起床は、夜更かしに憤れた身体には大変なことだった。しかし、不慣れだった炊事も、だんだんと巧くいくようになったし、同じ班の仲問も、それぞれの個性をわきまえて役割を果たせるようになった。豚が豚舎から、ケージから鶏が逃げ出すようなハプニングにも動じなくなった。農業に限らず、杜会人として生活をしていく上で、重要な経験であったといえる。
 そしてもう一つの私の思い出は、農業クラブ活動である。農業クラブは、それぞれの農業高校が一つの単位であるが、県レベルの会議や大会、全国大会などの行事を通じて、他の農業高校生と交流することができた。宮谷祭に安房農業高校や岬高校のクラブ会長が来たこともあった。このような交流は職業高校ならではのことであろう。特に私は、二年生の時、FFJ第一回米国派遣農業実習に参加することができ、ホームステイやその準備のための研修の中で、全国各地の農業高校生と知り合う機会ができた。そして、それぞれの地域の農業や農業に対する考え方を話し合ったり、アメリカの農業を実際に見るという貴重な体験をすることができた。
 この外にも、日常の出来事や行事のことなど、色々なことがあった。失敗したこともあったし、恥ずかしかった思い出もある。それでも今では良い思い出だ。その中でこの稿に記した事柄は、現在農業を営む私にとって大切な思い出である。しかしそれは、農業に限ったことではないであろう。社会人、職業人として、実際に遭遇する、実地で体験するということはとても大事なことだ。そんな経験を得られる土壌が山武農業高校にはあり、大正一昭和・平成と移りゆく時代の中で、様々な分野に人材を輩出しているのではなかろうか。私も母校での経験をよく反芻し、山武農業高校卒業生の一人として頑張っていこうと改めて考えるのである。




 私にとっての山武農高
 清水敏夫(平成二年度卒)

 創立八十周年、おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。月日が経つのは実に早いもので、私が卒業してから十年、改めて高校三年聞を振り返ってみると、部活動・農業クラブ・生徒会活動などと経験したものが多々あり、また実に多忙な学生生活であった事を覚えています。
 昭和六十二年入学後、私は陸上競技部員となり、馬場敏彦先生のご指導のもと、三年間ほとんど休みのない中、練習にあけくれておりました。皆様ご存知のとおり、陸上部は部創設以来、駅伝をはじめ様々な種目で関東大会や全国大会、国体などに数多く出場している伝統ある部、それだけに練習内容も全国レベルで、とても厳しいものでした。何度となく、きつい・辛い・耐えられないと弱音を吐くこともありましたが、私にはお互いに励まし合うことが出来る良き友・ライバルがいてくれたおかげで、なんとか部活動を続けることができました。その甲斐あって、二年時の地区大会八百mで五位入賞、また三年時には千六百mリレーで、ともに練習で汗を流した仲間とともに地区大会優勝を手にし、県大会へ出場することができ、部としても平成元年度には関東地区駅伝競争大会南関東の部で優勝、続いて全国大会で都大路で堂々力走し、二十二位とすばらしい成績を残した年でもありました。
 また農業クラブ活動では、石村行弘先生菊屋泰男先生はじめ、多くの先生方のご指導のもと、陸上部の練習と並行して各種大会に参加しました。熱心なご指導のおかげで研究発表大会では二年時に意見発表A部門、三年時にプロジェクト発表A部門において、それぞれ関東大会に出場することができました。全国大会には農業鑑定競技の部で出場し、一一年連続で優秀賞を獲得できました。
私が高校時代に残すことが出来た各種大会の成績は、先生方の大変な苦労と努力、そしてなによりも山武農高を愛する深い気持ちがあったからこそだと深く感謝しております。この三年間の部活動を通してチームワークの大切さと強い精神力を養うことができ、それが心の支えとなっています。また農業クラブ大会出場により、さまざまな人の意見を聞くことが出来たことは、私の財産となっており、専門的な知識・技術を習得できた場として、大変良い経験となりました。
 今日の後輩達の活躍は、まさに輝かしいものがあり、農業クラブでは第四十九回全国大会で意見発表A部門において最優秀賞と文部大臣奨励賞、また陸上競技部は十年ぶり八回目の全国高校駅伝競争大会に出場し、二時間十分を切る好タイムでゴールするなど大変すばらしい成績を残しております。このような活躍を耳にするたび、心が躍らされます。私は現在、高校教員として勤務しておりますが、その社会人としての出発点が我が母校だったことは大変嬉しく思っております。平成六年から一年間ではありましたが、臨任講師として勤務し、学生の頃には気づかなかった先生方の苦労を垣間見、恩師から学んだものを今度は、私が微力ながら生徒達に少しでも還元できるよう精進していきたいと思っております。
 最後になりましたが、私は山武農高卒業生であることに誇りをもっています。これからも、このすばらしい母校を私なりの力で応援していきたいと思っております。
 母校のますますの発展をお祈り申し上げます。







 食品工業科と私
 尾形政和(平成三年度卒)

 千葉県立山武農業高等学校が創立八十周年を迎えられたことを心よりお祝い申し上げます。私は食品工業科第二十八期生として、昭和六十三年に入学し、平成三年に高校を卒業するまで、まさに自然の空雲の流れの早さに象徴される時節の変化、そして激動の昭和の時代から昨今の経済不況のあおりを受けている平成の時代へのかけ橋のときに、程よく何かの厳しさと飛躍性を伴いながら高校生活を過ごせたことは今でも記憶に新しいところであります。
 母校を巣立って九年の歳月が経ちましたが、あのころを振り返ってみると、入学当時食品工業科は二学級であり、男子のみの九十名でスタートしました。この食品工業科は千葉県内の公立高校の設置学科としては唯一の科であり、各分野から脚光を浴びていることは今でも変わらないことだと思います。校地内の東側に鉄筋コンクリート構造の三階建てを擁し、施設・設備がゆき届いている食品工業科棟兼工場をはじめ、特別教室棟には食品化学や応用微生物を中心とする実験教室、二か所の茶畑を管理(現在では蒲田農場のみ)し、大変恵まれた環境のなか、学生生活を送ることができました。特に専門科目における実験実習の思い出を書きつづっていきたいと思います。
 まず農業基礎においては、豆腐の製造をはじめ、卵の新鮮度の検査、食品化学では、食品の成分・栄養などの分析を中心に、応用微生物では、各種微生物の観察・食品からの分離操作、食品製造機器では、ボイラ学習を中心に、熱伝導度測定や粉砕実験、電気の特性まで・・。更に何よりも多くの時間を費やしたのが、食品製造の実習に他なりません。年問の実習内容が本当に目白押しでした。春からはたけのこ掘りが始まり、工場へ戻っての缶詰製造。朝はやく当番が決められ、眠たい目をこすりながら取り組んだ製茶実習、みんなで弁当を片手に成東町へ向ってのいちご摘み、そしていちごジャムの製造。夏になると、桃のシラップの缶詰製造。秋になれば、栗きんとんの原料となる栗の皮むき実習。始めて使う包丁をもった時の緊張感は今でも頭のなかに残っています。それから各種パンの製造、クッキー.ソーセージ.ロースハム・スモークチキンの製造、鶏のと殺実習。冬になると、味噌の仕込みやダイコン洗いと漬けこみ、みかんのシラップの缶詰製造など。この他にも、文化祭の時の揚げたてのドーナツの味と、真夏の炎天下でおこなった蒲田農場の天地返しを忘れることはできません。常にモノづくりのなかで、ある程度の責任感や忍耐力が知らないうちに身に付き、いわゆる継続的精神集中力が培われたような気がします。また額に汗すること、礼儀を重んずること、清潔感、将来計画、教養など数多くのことを学びました。
 したがって食品工業科の卒業生も、時代の進展に伴い幅広い食品工業技術者として全国各地のあらゆる業種の食品産業に従事し、その使命を十分に発揮していることは、卒業生として大変嬉しいことであります。私も現在、千葉県立旭農業高等学校で食品流通科の生徒を中心に教鞭をとらせていただいています。担当も食品製造ですので今までの経験を生かし、指導にあたっています。今後も使命感を忘れず、生徒たちの豊かな発想力や感性を大切にし、個々の輝きを導くと同時に活躍できる場面を提供しながら、互いに成長していきたいと思います。知識を積めこむだけでなく、ヒトとしてのモノの考え方や生き方を、そして人を思いやる心や素直な心の育成に努めていきたいと考えています。最後になりますが、千葉県立山武農業高等学校の益々のご発展をお祈り申しあげ、筆をおきたいと思います。






 山武農と私たち
 齋藤順一(平成十一年度卒)

 山武農業高等学校での三年間、私はとても充実したものでした。それは、この三年間、風邪を引くことなく過ごすことが出来た。そして、この高校生活に魅力を感じ、身体ともに鍛えられたということが結果を見ればわかります。
 一生に一度しかない高校生活の貴重な体験は、今だから思い出としてあり、一つ一つの体験が自分の力となりこの経験が杜会生活の中では、必ずいかされていくと思います。その中の一つに仲間作りがあり、私は、とてもいい友人にめぐりあうことが出来ました。自分自身のことばかりのことしか考えていなかった私を教え、そして、ささえてくれました。次に社会のルールからはずれそうになったときしっかりと指導してくれたのは、先生でした。今の私たちは、ただ先生として教えてもらうだけでなく、人生の先輩としても、多くのことを学ばせて頂きました。
 今、私たちは、大学、短大、専門学校、就職など少しずつ杜会へ進んでいます。進み方は、それぞれですが、山武農業高等学校の思いでをけっして忘れることはないでしょう。そして、教育に対する学校側の姿勢・伝統などあらゆる熱意が今につながっているのでしょう。
 最後に、先生・生徒・保護者一地域の人々との連絡を密にしてこれまで以上の山武農業高等学校の歴史を積みあげてほしいということが希望とするところです。
 そして、山武農の卒業生であることを即答できる自分でありたいと考えています。学校を離れて、始めてこの学校のすばらしさを身にしみて感じました。在校生の皆さんもいずれこの心をわかって頂けると思います。これまで以上の発展を心から祈りします。




 私の三年間
 並木勝則(平成十二年度卒)

 三年間の高校生活という言葉を聞いて、貴方は何を思いうかべるだろうか。充実し、楽しかった日々をおもいうかべる人もいれば、三年間何の楽しみもなく、たいした思い出がないという人もいるかも知れない。それは、人それぞれに、様々な思いがあることだろう。さて、では私はといったら、どちらかと言えば前者にあてはまる。どちらかという表現を用いたのは、三年間の高校生活全てが充実していたわけではないからである。入学してからの二年問は、特にやりたい事もなく、何かうちこめる物があるわけでもなく、何となく過ごしてしまっていた。しかし、最後の一年間では目標をもち、やりたい事をみつけ、他では決してすることのできない貴重な体験をし、とても充実した日々を過ごすことができた。その一年の中で最も思い出深い体験といえばやはり生徒海外派遣事業に参加したことだろう。事業の内容は、東南アジア諾国の文化にふれ国際的視野を広めようというもので、千葉県の各高校の代表者、計百名が参加した。五回の事前研修を経て、七月の終わり頃に日本を発ち最初に訪れたのは、マレーシアの首都クアラルンプールだった。フライト後、空港を出て一歩町に足を踏み入れた瞬問、日本とはまったく違うにおいがしたのを憶えている。事前研修では訪問国の気候はとても暑く、町の治安もあまりよくないと聞かされていて始めは緊張したが、いざ到着してみると特に悪そうな人がいるわけでもなく、そこには日本と変わらない町並があり、気候もむしろマレーシアの方が涼しいくらいだった。二日目には寺院や王宮を見学した後、市内にある学校を訪問した。バスに乗り学校に到着すると校門は生徒でいっぱいだった。内に入った私達を彼らは盛大にもてなしてくれ、交流会の開会式の後校内を案内してくれた。その学校は保育園から高校までの付属学校らしく、四、五才のかわいらしい園児や小学生なども数多く見られた。各所を廻る間幾度か会話を交わしたが、彼らの英語のレベルはかなり高く、簡単な挨拶や白己紹介以外まんぞくな会話もできず、言葉の壁を感じてしまい何も言葉をかえすことのできなくなってしまった私に、彼らは何とかして自分の言いたい事を伝えようと、体を使いゼスチャーで表現してくれるなど、さまざまな方法で言葉を伝えてくれた。そんないっしょうけんめいなかれらの優しさに何とか答えようと、私もからだ全体を使い言葉を表現した。そうこうしているうち、いつの問にか言葉の壁は消えていた。あっという間に時問は過ぎ、気がつけば交流会は終わりを迎え、わかれの時が近づいていた。始めに抱いていた不安は淋しさへと変わり、わかれぎわに涙をこぼす者もいた。言葉の壁はのりこえられたものの、何か煮え切らないうちに交流会が終わってしまい、もっと積極的に行動すればよかったという後悔の念が心に残った。その失敗を胸に、四日目のタイでの学校訪問では積極的に行動し、交流会を楽しむことができた。日本の伝統的な遊びであるべーゴマやけん玉などを教えてあげると、こんどは彼らが、タイ舞踊を教えてくれ、交流会の最後に体育館に集まり、全員でタイ舞踊を踊った。交流会の終わりにはやはりわかれの淋しさはあった。だが、今度は悔いを残さなかった。マレーシアの学校、タイの学校とも、生徒達とふれあうことのできた時間は、本当に短いものであった。しかし、その時間の中で確かに彼らと心が通じた。いっしょにいた時問も短い。言葉を相手に伝えることも難しい。そんな彼らと私達が、確かに心を通じあわせることができたのだ。そこには絆があった。学校訪問以外にもマレーシア、タイ、それぞれの国で目にした遺跡や寺院などの古い建築物、触れることのできた文化と人々の心、そして仲間達とともに過ごした時間。この六泊七日の旅は、事業の趣旨以上の物を私に与えてくれた。生徒海外派遣事業は私にとって、決して忘れることのできない貴重な体験、そして、大切な思い出なのである。生徒海外派遣事業のほかに、高校生活を語る上で忘れてはならないのが宮谷祭であろう。そもそも私が生徒会長に立候補したのは、宮谷祭をより活発化したいという思いがあったからなのである。本校は農業高校ということもあり、普通高校のようないわゆるお祭り気分の派手な文化祭を行うことはできず、農業高校ならではの、農業高校にしかできない文化祭という方針で行われてきた。だが、これには利点もあるが、同時に欠点もあった。それは、確かに農業高校らしい文化祭をすることにより販売品が充実し、多くのお客さんはその販売品を毎年楽しみにし、本当に喜んで買ってくれている。だが、本来生徒のための行事である文化祭で、生徒が楽しめていないのだ。何故か。それは、二、一二年生のほぼ全てのクラスは専攻の展示を優先しなければならず、白由な出し物をすることができないことが主な理由として挙げられる。何とか改善しようと、生徒会の役員達と話しあったり、先生方に相談するなどしていろいろ考えてみたが、良い改善策がみつけ出せず、自分の無力さを痛感した。そうこうしていると、宮谷祭の準備が始まり改善策はあやふやなままになってしまった。そんな中、各部門による出し物のプログラムを作成していると、ふと一年生の出し物が目についた。そこには今まで本校では良しとされていなかった企画が書かれていた。それを目にした私は、これで宮谷祭を活発化することができるのではないかと思い、準備に熱が入った。全部門の下準備と書類の作成、実行委員会議やバリケード作りなど準備は多忙を極め、夜遅く帰宅することも幾度かあり、運営者の大変さを身をもって知ることができた。そして宮谷祭当日、地域の方々は例年のように大勢来校されていたが、それ以上に他校の生徒の姿が多く見られた。例の一年生の出し物は、あまり好ましくない成果に終わったが、他の部門では展示の内容が私の想像していたよりもはるかに良いものであったし、何といっても装飾がすばらしかった。各部門の生徒達、そして担当の先生方がいっしょうけんめいがんばってくださったおかげで宮谷祭を成功させることができた。多少至らない部分もあったが、私的には宮谷祭の活発化には成功したと思う。生徒達も楽しそうにしていたし、来校して下さるお客さんも増えた。それに私白身、とても楽しかった。白分達の運営してきた宮谷祭が成功したことが、何よりもうれしかった。この一年間で私は、さまざまなことを学び、体験してきた。何か大きなことをやりとげた時の喜びと達成感。遠い異国の地で知った温かい心と不思議な絆。肌で触れた異国の文化など、いろいろなものを得ることができた。だがその一年間は、入学してからの二年問なくしては決して存在するものではないのである。私はこの場所で、さまざまな事を学び、大きく成長することができた。私にとってこの山武農業高校は、決して忘れられない、忘れることができない場所、そして思い出なのである。






 寄稿
 おもい
 大塚安雄(平成一〇年度PTA会長)

 朝な朝な、恵みの露をふりかけよ、下行く人の返りみるまで。と詠われている校門の反省松も、今では場所も移り、何代目かの松になった今でも、いつもかわる事なく、日々見守っていてくれました。
 私も昭和四十年に園芸科に入学しました。当時は木造の校舎で、現在のグランドにありました。古い校舎では、ありましたが、五十五名の級友との楽しい思い出の詰まった場所でした。現在の校舎が建っている所は、当時、山林で、そこへ、新校舎が建築されることとなり、級友と測量したものです。今、校舎や体育館を見ると、当時を思い出し、とても感慨深いものがあります。昔、自分が生徒として学び、そして子供が入学してからは、PTA会員として、当時、お世話になった先生方のなつかしいお顔を拝見出来て大変うれしく思います。あの頃とは、立場が変わり、子供達の成長を願い、先生方と力を合わせてのPTA活動。私は何事も楽しくなければいけないと思っています。それは、PTA活動においても言えることです。子供達が山武農業高等学校を進学先に選び入学したことにより、親の私達がPTA会員としてご一緒できることです。
 今、子供達を取り巻く杜会の変化に伴う、人々の価値観の多様化、高度化する学習二ーズに、一番戸惑い心配しているのは、私達、親ではないでしょうか。子供の健やかな成長を願う気持ちは、今も昔も変わる事のないものだと思います。私が、四十二年に高校を卒業した後、交通事故が続き、親子で生命の大切さ、尊さを考えようと、親子協議会が発足し、現在までPTA活動の中での大きな柱となっております。PTA親子協議会には、その活動を通し、親も成長していくために、学習や情報を得るための場として活用させていただきました。我が山武農高には、いろいろな学科があり、中正農場、生物工学棟を始め、施設も充実しております。このすばらしい環境、そして、先生方の情熱あるご指導の中で、のびのびと学習している子供達の姿はたのもしい限りです・この伝統ある山武農業高校は、平成十二年に創立八十周年を迎え、一段と飛躍してゆくのだと思います。PTAの一役員として、この時を迎え、子供達の生命の大切さを考え、これからもPTA・親子協議会が、ますます発展し、山武農業高校が地域とともに歩む、すてきな高校でありつづけることを願っております。