【講演概要】
○生い立ち
私はS45年生まれ今41歳です。19から31歳まで、12年間薬物依存し、止めてから10年たった今でも精神状態も身体も具合が悪く、一日一日やっと生かしてもらっている感じです。
売れない歌手の長男、母子家庭でした。母はアイドルデビューしたが、子ども(自分)の存在がバレて乾され、彼氏をたよる生活なので、小学校も転々とし、私が中2の時、母が妊娠し14歳下の弟が生まれた頃にはすっかりグレ、たばこ・酒・ぼや騒ぎを起こし、夜はコンビニ店、昼はパチンコ店で、自分の部屋には悪友がたむろするので、弟の教育上好くないと、千葉の親戚に預けられました。高校受験は公立も私立も定時制も落ち、中卒で業務用エアコン設置の工員となり、たこ部屋に寝て、1日6000円の日当で働きました。
ある時、高校にエアコン設置に行き、同世代の高校生が楽しそうに過ごす横で、汚い作業服を着て、壁に穴を開けたり、コンクリートをこねて重いバケツを運んでいる自分が情けなく、自分は進路を間違えたと後悔しました。自分は将来は空調屋の社長になろうと思いまじめに働きました。
○大麻から覚醒剤へ
19歳の頃、車の免許を取り、週末に東京の実家に帰るようになり、青学や法政の大学生になった中学時代の同級生と夜はクラブに遊びに行くようになりました。
中学時代野球部で生徒会にも出入りし、自分は一目置いていた友人から大麻を勧められました。今思えばまったく間違った情報ですが、「依存性はない。身体にいい。たばこよりまし。」と言われ、やってしまいました。
1回でも吸ったら大変だと当時は分かりませんでした。大麻は入口。必ず深みにはまっていきます。今、薬を止めて10年たっても、心も体もつらいです。自分は、ちゃんとした知識があれば手を出さなかったと思います。
1g6000円。6万円10gは一週間でなくなりました。給料をもらって大麻が手に入ると嬉しく、周りの友人にも勧め、巻き込んでいました。「こっちなら4000円で買える」と情報をもらい、売人が次々と変わり、暴力団関係の人から直接3000円で買えるようになりました。弟が5〜6歳の頃には仕事も辞め東京の実家に帰り、3000円で一週間ももたたくなってきていました。
ある時、「今日は大麻は無いけどSならあるよ。大麻よりずっといいよ」と言われ、「とりあえず間に合わせていいや」と、銀紙の上に覚醒剤を蒔いて下から火で焼き、一万円札を筒にして吸いました。「あぶり」という手法です。
一口吸うと、ちょっとスーッとしたものの、「ガラスが割れたように頭の中が壊れてしまった。もう元には戻らない。これはやっちゃいけなかったな。」と、感じました。
しかし、結局、そのときは友人と朝まで吸い続けました。その後3日間は眠れず、次の3日は手足がしびれ、何も食べられず、けだるさが14日間も続き、人前には出られない状態になりました。それ以来、今でもけだるさは抜けません。
1g買って半分以上残っていましたが、「これはだめだ。自分に合わないし、人にも勧められない」と、放置していました。
○逮捕
そんなある日、偶然コンビニで先輩に会い、家に誘われて行きました。彼も覚醒剤をやっていて、勧められ、自分はやりたくなかったが吸ってみました。すると、けだるさや壊れていた頭の中がシャキッと治り、苦しい状態から、活性化され、楽になりました。そう感じただけで、今でもだるく、壊れた状況は決して治りません。
20歳で覚醒剤を覚え、はじめは2〜3日に1回。一緒に住んでいた女性にも母にも弟にも絶対に分からぬように続けました。使用者のコミュニティーの中では、絶対に外にばれてはいけないことになっています。
23歳で上野に大麻を買いに行き逮捕され、ばれました。留置場に入れられ、家に帰れない。数日後、彼女や母、弁護士が面会に来て、もう絶対に止めようと、涙をボロボロ流しつつ謝り、誓いました。
大麻は実刑(懲役)10ヶ月、執行猶予2年です。刑の施行を猶予しますが、もし2年以内にやったら10ヶ月も併せて刑務所ですよ。ということです。
○アメリカでLSD
彼女も母も「もうこいつはしないだろう」と信じてくれたと思いますが、本当はそんなことはありません。自分は酒が飲めないので、市販のかぜ薬で似た成分ものを飲んで騙していました。1回3錠でいいところ30錠以上も飲む姿を見て、彼女は離れて行きました。
執行猶予は終わったが、彼女は逃げちゃうし、働く気もなく過ごし、捕まらないようにとオランダに10日間の旅に出て、大麻を吸いました。今思えば、身体もやられていて、働こうと思っても働けない状態だったと思います。26歳でした。「覚醒剤に手を出し、働くこともできず、むなしいけどまあいいや。」と、30歳になったら止めるつもりでしたが止められず、MDMAやエクスタシーを楽しむようになっていました。
ちょっとディスクジョッキー(DJ)をやっていたのでアメリカに行って、DJやりながら薬をやろうと留学しましたが、DJは全くやらず、薬漬けの毎日でした。LSD(幻覚剤)に手を出して、完全に頭がおかしくなって、幻聴や幻覚状態に陥りました。
被害妄想で、自分に危害を加える人がドアを開けて入ってくると信じ、ナイフを持って玄関に座り待ち構えたこともあります。53Kgから35Kgに痩せ、骨と皮。友人も「あれは死んじゃう」と心配していましたが、自分は大丈夫だと思っていました。
○精神病院へ
母がアメリカまで迎えに来てくれましたが「自分にはDJがあるから」と断り帰りませんでした。数日後、離婚した自分の父が迎えに来てくれ、さすがに自分はまずい状態なのだろうと思い帰国し、精神病院の保護室に入れられました。
鉄格子の中、隣の人が朝から晩まで鉄の扉をたたいているのを見て、自分もこれと同じかと思い、もう絶対にやらないと決心しました。しかし、退院して数日たつと、ほしくてほしくてたまりません。医者に相談すると、処方薬がもらえます。1錠でいいところ10錠も20錠も飲んでしまい、また覚醒剤に手を出して、精神病院へ。30代は最悪の人生でした。
○沖縄ダルクへ
母はダルクの存在を知り、勧めてくれましたが、自分は話題になっていた戸塚ヨットスクールの様にスパルタ式の厳しいところだと思っていて、断っていました。
覚醒剤を使うと、脱水症状になり息ができなくなって、救急車を呼ぶことが重なり、そのたびに身体の大きなレスキュー隊員に囲まれて世話になるうち、ある日、もうこれはだめだなと思い、母にダルクに電話してもらい、ダルクの代表に「もう止められないんです、なんとかして下さい」と頼みました。「どこのダルクに生きたいか」と聴かれ「一番厳しい所へ行かせて下さい。」と答え、家から一番離れた沖縄ダルクに行くことになりました。そのおかげで、普通に何かができるようになりました。麻薬を止め、今日で9年11カ月になります。
ダルクの12ステップを終えて、社会に復帰したころは、やる気とエネルギーに溢れていましたが、その後、鬱になり、薬物依存の履歴をよく知っている医者の処方通りに薬を飲んで、やっと一昨年、鬱を脱しました。
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